糸島からすぐ隣の福岡市には、わりと気軽に足を伸ばせます。
いうまでもなく福岡市は、九州地方最大にして 全国5番目の人口規模を擁する政令指定都市ですが、現在、人口増加数・人口増加率共に政令指定都市の中でトップであり、人口に占める学生の割合は全国二位、と若者人口も多く、スタートアップ企業などの開業率も全国で首位の座を占めており、天神や博多駅周辺などでの大規模な都市再開発も進行中で、現在日本の中でも とりわけ元気で勢いのある街の一つといえます。
そんな福岡市の発展が何によってもたらされたのか、その原因をひもとくと、いくつかの要素の組み合わせだといえます。陸・海・空の交通インフラの要所となっている立地条件をはじめ、目抜き通りである「渡辺通り」の由来となった実業家の渡邉與八郎など優れた民間の経済人が積極的に都市開発を主導した功績、といった具合にいろいろ上げられますが、その中で個人的にとりわけ注目している事柄があります。
それは、今から60年以上前に新聞に掲載された一つの「提言」です。本日は、福岡市の発展を語る上では欠かすことのできない、ある「提言」について、今回は述べさせていただきたいと思います。。
さて、福岡市に限らず、日本の地方自治体においては大抵「総合計画」というものが定期的に作られています。これは自治体の行政運営すべての基本となる最上位の計画で、おおよそ10年周期で策定されるケースが多いようです。福岡市が策定した栄えある第一次総合計画は、さかのぼること1961年に発表されましたが、これは大コケする結果となりました。何が起こったかというと、ときは 高度経済成長期、当時 国全体をあげて工業化を進めていた時代だったわけですが、福岡市としても、「乗るしかない、このビッグウェーブに」と、いうことで工業都市としての発展を目指すべく、第一次総合計画においては、博多湾を臨海工業地区として開発し、石油化学コンビナートなどの工場を誘致して、第二次産業の工場集積を進めることを計画の柱としました。
ところが既に県内では北九州市が一大工業都市としての地位をバキバキに固めており、また福岡市には一級河川がなく、大量に必要な工業用水を手当するために膨大なコストが見込まれたため、企業にはほとんど見向きもされず、結果として工場誘致作戦は大失敗となり、第一次総合計画はあえなく頓挫してしまいました。
しかしその翌年、地元の大手新聞社である西日本新聞が、大学教授などの専門家からなる委員会を立ち上げ、福岡市を含む21都市について開発政策の考察を行った「西日本都市診断」という分析報告をまとめて、その内容を新聞で連載しました。
この「西日本都市診断」が、福岡市に関して下した分析内容をズバリ一言でいうと「福岡市は工業化やめれ」という内容になります。
つまりこれまで推し進めてきた臨海工業エリア開発路線を放棄し、第三次産業(サービス業)を中心とした都市型産業に力を入れ、市域をコンパクトにまとめて都市機能を充実させ、九州エリアの管理中枢都市を目指すべき、という内容の意見を打ち出しました。
このときの新聞記事の見出しはズバリ「肥大より機能充実を図れ」というものでした。
今にしてみれば至極まともな意見だとすんなり受入れられますが、当時の時代背景としては、イケイケどんどんで工業生産の拡大を目指す世の中で、日本全国津々浦々で意気揚々と工業団地の開発を進められる中、うまく工場誘致が叶えば、地域のGDPが爆上がりすると共に、雇用もジャンジャン生まれ、地方の税収も一気に増えるので、当時「工業化」とはさぞかし、人々を惹きつけて離さないドリーム感あふれる政策コンセプトだったのだと思います。
ましては福岡市としては、隣の北九州市が福岡市に先んじて政令指定都市になり、工業都市としてブイブイ発展していた姿を目の当りにして、年下のクリリンに亀仙人の弟子入りで先を越されたヤムチャのように、ある種の焦りを感じていたことは想像に難くありません。
そんな状況において福岡市が、工業化路線を断念する、という判断を下すことは、非常に大きな困難と抵抗に直面したと思いますし、とてつもなく勇気のいる決断だったと思いますが、福岡市は第二次総合計画において、西日本新聞の「西日本都市診断」の分析内容を踏まえる形で、従来路線を白紙撤回し、第三次産業を中核に据えた都市機能充実を目指す、という大胆な路線変更を打ち出しました。
水の呼吸に見切りをつけた竈炭次郎のようなこの決断の結果がどうなったかといえば、改めて言うまでもありませんが、福岡市は第三次産業を中心に県内はおろか九州域最大の都市に発展し、郊外に無闇に開発を広げず市街地を集約したことが奏功し、コンパクトシティとして住み心地の良い都市環境を実現するに至りました。
自分がとりわけこの「西日本都市診断」を巡るエピソードに興味を持つ理由は、主に3つの観点からです。
一つ目の観点は、この福岡市の都市戦略の転換は、一般的な日本的組織の特徴に照らしてみると、きわめて珍しい優れた戦略的再構築の事例だ、ということです。
有名な本で、第二次大戦時の旧日本軍の敗因分析を通して、日本の組織特性の問題点を浮き彫りにした『失敗の本質』という名著がありますが、この本で指摘されている旧日本軍の組織特性は、今の日本の社会においても少なからず見出すことができます。たとえば「大艦巨砲主義」や「艦隊決戦主義」にこだわったように、過去の成功事例にとらわれ過ぎて、時代の流れに適応できずボロ負けする、というパターンだったり、あるいは、緊急時の対応のためのContingency Planつまり、「プランB」をまったく準備することなく、あくまでオリジナル・プラン一本で勝負に臨み、想定外の事態が生じても硬直的に当初の計画完遂にこだわりつづけた結果、大敗北を喫する、というパターンだったり、そんな日本的組織「あるある」の問題点が、次から次に本の中であげられているのですが、博多湾への工場誘致大作戦の「失敗」を潔く認め、「工業化」という全国水平展開された成功事例に敢えて背を向け、工業から商業への路線変更、つまり「プランB」への移行を速やかに決断した、という福岡市の事例は、『失敗の本質』の中で指摘されている「旧日本軍的失敗」が巧みに回避された優れた戦略転換の実例として高く評価されるべきじゃないか、と思う訳です。
次に二つ目の着眼点は、福岡市の戦略転換が、行政ではなく民間の声をきっかけに動いたという点です。ややもすれば、自治体の作る「総合計画」などという代物は、一般市民にはなじみが薄く、中身はおろか存在すら知らない人も少なくないのではないかと思います。ですが、福岡市が第一次総合計画から第二次総合計画への移行において行った戦略転換は、お役所の内輪で完結した閉鎖的プロセスの中ではなく、西日本新聞の積極的な提言という形で、民間の意見が建設的に反映され、かつそれが実際その後の市民生活の向上にしっかりと結びついたという胸熱な展開は、大いに注目すべき点ではないかなと思ったりします。
そして最後に三つ目の着眼点、それはマスメディアの役割です。最近テレビや新聞は
SNSの勃興と共に、すっかりオールドメディア扱いされ、かつてと比べて著しく社会的地位が低下したことは否めないと思います。ただ、このままマスメディアは消滅への道を歩むしかないのか、と考えると、必ずしもそうではないと個人的には思います。偏った思想性や特定の利益誘導とはキッパリ距離を保ち、常に信頼性の保持に重きを置いて、公益性と客観性をストイックに追求するような、そんな報道姿勢をマスメディアが示すことができれば、玉石混交の情報が入り乱れるネット空間に人々が疲弊しつつある中、社会からの評価は大いに上がると思いますし、この点に関して、マスメディアが高い社会評価を勝ち得た
過去の実証例としてあげられるのが まさに西日本新聞社の「西日本都市診断」ではないかと思います。今改めてマスメディアに求められているのは、プロフェッショナルとしての鍛錬と自己規律に裏付けられた行動規範、つまり、Disciplineではないかと個人的には考えます。西日本新聞の西日本都市診断を読みますと、まさに新聞社としてのDisciplineを強く感じとれる内容だと思います。
ということで、個人的に西日本新聞の西日本都市診断の話には、いたく感銘を受けた、ということなのですが、福岡市の出身の人であれば、ひょっとすると小中学校の社会科の授業なんかで、このエピソードについて習ったりするのかもしれません。しかし、とても普遍的な教訓に富む話なので、ローカルなネタとして扱うのはいささかもったいないと思われ、もっと全国レベルに広く展開すべきクオリティの逸話ではあるまいかと思っています。
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