地方移住したFIRE生活

無職に刺さる老荘思想の至言

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15〜23分

リード

人間、生きていく上においては、時として心の支えになるような「コトバ」を求めたりします。勇気をふりしぼって立ち向かわなければならないとき、不安に押しつぶされそうになったとき、夢をあきらめそうになってしまったとき、とかいった感じのシチュエーションにおいて、元気やモチベーションを高めてくれるような、名言・格言 或いは諺の類は、結構人生において役に立つものだと思います。

ただ だいたいにおいて名言・格言の傾向としては、『明けない夜はない』とか、『あきらめたらそこで試合終了』とか、『ソープへ行け』とか、人が社会の営みにおいて、対立や挫折や葛藤を乗り越えて、富・名声あるいは力を手に入れることを後押しするような、あるいは そのための成長を支援するような、そんな内容のものがほとんどだと思います。

自分のような無職生活をしていると、富・名声・力を追い求める生き方とは正反対の暮らしをしているので、そんな無職生活者にダイレクトに響くような内容の名言・格言は、あまり見当たらない、というかむしろ、ニート的生活態度に対して思いっきりダメ出しして来るような名言・格言の方がかえって多いように思えます。

とはいえ、無職といえども、日々生きていく上において、自己肯定感を高めてくれるような何らかの「コトバ」が時に欲しくなることもあります。

そんな無職におあつらえ向きの至宝の格言コレクションと 思えるような思想の体系が実はありまして、それは何かというと、中国の老荘思想です

老荘思想は、大昔の中国の思想家である老子と荘子の思想をまとめたもので、優れた生き方というものは、無理に何かを成し遂げようとせず、自然の流れに身を任せ調和をはかるべきだ、といった感じの教えを説くものですが、今回は無職生活の支えになりそうな老荘思想のキーワードを、いくつかピックアップしてみたいと思います。

まず最初は、「逍遥遊」(しょうようゆう)というコトバです。

要約すると、世俗的な欲望や アレコレ煩わしい決まり事から逃れ、ことさら作為的なことは行わず、あくまで無心に自然の流れに身をまかせて、精神的自由を楽しみながら、自分らしさを貫いて生きる、とまぁそんな状態を指すコトバです。

老荘思想の目指す理想形の生き方が、まさにこの、「逍遥遊」という三文字に込められていると言えます。

無職が日がな一日、仕事もせずにボーっとしている状態は、普通 後ろめたさしかないわけですが、老荘思想的な見地に立てば、、「逍遥遊の境地に近い・・・」と無理やり言えなくもないかな、と思います。

そんな自由さを謳歌できる一方で、無職生活はいかんせん収入がないだけに、概して日々の出費を切り詰めることに、汲々となりがちです。ショッピングサイトで気軽にポチれる人をうらやましく思い、友人と食事に行くときも 後の会計が気になって心落ち着かず、と、まぁそんな倹約に縛られる日々が、みじめに感じられる場面も少なからずあるかもしれません。

そんな時に心の支えになる老荘思想のコトバ、それはズバリ あの有名な「足るを知る」 です。

欲望を際限なく追い求める生き方を捨て、自分が今、手元に持っているものを大切にし、それで気持ちを満たす、という状態を指しています。

この考え方に関してもう少し深掘すると

甚だ愛すれば必ず大いに費え(甚愛必大費)

多く蔵すれば必ず厚く亡う(多藏必厚亡)

足るを知れば辱められず(知足不辱)

止まるを知れば殆うからず(知止不殆

ということが言われており、だいたいの意味としては、物事に執着すれば失ったときのショックが大きくなるし、たくさん物を持っていれば失う度合も大きくなる、今あるもので満足していれば恥ずかしい目に遭うこともなく、一定ラインで踏み留まる加減を知っていれば危険な目にも合わない、ということが説かれています。

要は 倹約最高、ということです。

さらに似たようなメッセージのこもったコトバで、

鷦鷯深林に巣くうも、一枝に過ぎず(鷦鷯巣於深林不過一枝)

偃鼠河に飲むも、満腹に過ぎず(偃鼠飲河不過満腹)

というのもあります。

ショウリョウという鳥は木々の生い茂った林の中に住むが、巣を作るときはたった一枝しか使わないし、カワウソは悠久の流れである黄河の水を飲むけれども、自分の腹を満たせばそれ以上は口にしない、という意味で、要は この広い世界に生きる上において、自分独りで占有するものは、必要最低限の範囲にとどめればいい、という価値観を示しています。

そんな感じで、金がなくったって、泰然自若とした心持ちで堂々と生きることはできる、というわけですが、そうはいっても、無職という立場が一般社会から受ける冷遇は、いかんとも避けられるものではなく、隣近所からは冷ややかな視線を向けられ、銀行窓口や不動産屋のカウンターではゴミのように扱われ、クレジットカードを新しく作ることもできず、そんな感じで、自分の置かれた社会的地位の低さに切なさを禁じえなくなる場面は少なくありません。

そんな無職に対し、老荘思想はこんなコトバを投げかけます。

我を牛と呼べばこれを牛と謂わん(呼我牛也而謂之牛)

我を馬と呼べばこれを馬と謂わん(呼我馬也而謂之馬)

つまり世間からの評価やレッテル貼りなんて気にすんな、黙ってスルーしろ、というものです。

また別の似たようなコトバとしては

天の君子は人の小人(天之君子人之小人)

人の君子は天の小人なり(人之君子天之小人也)

というのもありまして、天上世界における偉大な存在は 

地上の人間世界ではつまらない人物扱いされ、逆に人間世界の偉大な人物は、天上界ではつまらない人間扱いされることもある、という意味で、要は他人の評価なんて、所変わればガラっと変わるもんなんだから気にすんな、というアドバイスです。

また無用の用というコトバもあり、一見役に立たないものにも、実は大きな価値があるという考えですが、社会的な評価や「役立つこと」に囚われず、自分の存在そのものに価値を見出すことが大切だ、と老荘思想は主張しています。

無職であることを理由に、銀行ローンが組めなかったり、家が借りれなかったり、といった日常周りの現実的問題は解決できませんが、ニートが人格的に蔑ろに扱われることに対して、精神面で耐性を身につける、という点においては、老荘思想は無職にとって心強い精神的支柱になり得ます。

一方、無職の抱える不安としては、人付き合いが希薄になり、自分がどんどん孤立していくのではないか、という心配もあるのではないかと思います。

そのために、無理してガラにもなく高校の同窓会などに顔を出したりして、、一層 孤立感を高めて帰ってくる、なんてこともあるかもしれません。

人間は社会的動物であり、仲間を多く作れば作るほど良い、という一般的価値観はありますが、これに対し老荘思想は逆の立場で

君子の交わり淡きこと水の如し(君子之交淡如水)

と説くように、物事をよくわきまえた人の交際は、水のようにあっさりしたものであり

ベタベタした交友関係は長続きせず破綻を招きやすいものだ、と 主張しています。

また、話は交友関係にとどまらず、老荘思想は

上善水のごとし(上善如水)

といって、何事につけても水のように柔軟でしなやかに生きることが理想だ、という考え方をとっています。

ちなみに水は常に低いところに向かって流れていき、日の当たらない汚れた湿地にたまっても、何も不平を言わない、という点に関しても、老荘思想が「水」というものを理想視していることにつながっています。

と言う感じで、老荘思想は、無職生活者に刺さる含蓄ある哲学を提供してくれると思いますが、いささか浮世離れし過ぎている感も否めず、なにしろ基本的なスタンスとしては、人間の知性や認識力には致命的な限界があることを前提にして、世俗的価値観を一切否定すると共に、人間が作為的に生み出すもの全般に対し不信を示している思想なので、文明の発展や科学技術の進歩、なんてものに対してもはなから否定的立場をとっています。

今から数千年前の思想なわけですが、現代社会に生きる我々が、地球全体を覆う情報通信ネットワークに繋がる端末を個人で持ち歩き、病気にかかってもたいていの場合先端医療による治療の恩恵にあずかれる、そんな文明的生活を今さら手放すのは到底無理な話なので、老荘思想というものは、部分的ではなく体系的に実践するには、かなり極端で過激な思想と言わざるをえないかなと思います。

とはいえ、永続的な科学の進歩を前提に、生み出される利益を次の成長に向けて再投資することを繰り返し、ひたすらパイの拡大を追い求め続ける、資本主義的な価値体系もいずれは行き詰るような予感を覚える中、資本主義と老荘思想という、相反する2つの価値体系を、い~感じでアウフヘーベンするような、21世紀の新たな思想が誕生してはくれまいかと個人的には密かに願っています。

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