地方移住したFIRE生活

日本をおおう「おもてなし」という呪い

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17〜26分

リード

コンビニで買い物をするたびに思うのですが、ビニール袋の有料化はいまや国民生活にすっかり定着している中、世の中では意見が賛否割れているものの、他の先進国を見渡してみると、日本に先駆けて、買い物にショッピングバッグを持参することが一般化していた所も多く、良い悪いは別にして日本も同様の道のりを歩んでいるんだなと感じる一方で、レジの会計の際にお手拭きやら割りばしやらフォークやらスプーンやらを、ごく当たり前のように無料でつけてくれるのは、先進国の中でも、ほぼ日本だけに見られる慣行だと思います。

こういった類の、日本独自のきめ細かいサービスは、いわゆる「おもてなし」と呼ばれたりしますが、この日本の「おもてなし」文化は、客人に対し繊細な心配りや気遣いを提供する日本人ならではの美徳、として誇らしげに語られる場面が多いものの、「おもてなし」文化が社会に「害」をもたらしている面もある、という視点も必要ではないかと思います。

たしかに「おもてなし」の精神は、相手への思いやりや心遣いを行動で示す美しい文化といえると思いますし、様々な形での人間同士の交流の場において、親密な関係性を円滑に築く助けになるものだと思います。

ただ、問題としては、その高尚な「おもてなし」の精神が、損得勘定に支配される貨幣空間の中の行為にも、不用意に取り入れられた結果、社会のあちこちに色んな弊害を招いているように思う訳です。

どんな弊害があるかというと、主に3つをここであげたいと思います。

一つ目は、「過剰なサービスのベンチマーク化」です。「おもてなし」とはしばしば、相手の期待を超えることが求められるため、サービス業に携わる者に、極端な気配りや長時間労働を強いる傾向があり、それが社会全体において「標準的なもの」として定着してしまうことがあります。

特に相手の気持ちを推しはかる「忖度」が横行しがちな日本社会においては、気遣いがまた別の気遣いを生み、「おもてなし」がどんどんエスカレートしがちな環境であるかと思います。

そんな風に「おもてなし」がエスカレートしつづけた結果、いったい誰のため、何のために努力しているかわからないような、過剰なサービスが社会に蔓延して、それがサービスの水準を測るベンチマーク化し、結果として「おもてなし」という美名の下で、その「誰得」過剰サービスを維持するために、多くの人々が意味もわからず人生の時間を消耗し、肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまうような、そんな状況が作り出されているのではないかと思います。

もっとも、かつてデパートに存在していた「エレベーターガール」のような、過剰なホスピタリティを提供するような職業は今や姿を消し、小売り店舗などでの常駐の係員も削減され、無人レジが導入されたり、商品の過剰ラッピングが見直されたり、はたまたセルフのガソリンスタンドが増えたり、宅配便の不在時の対応が簡素化されたり、そんな具合に各方面で、過剰サービスを見直す動きはたしかに見受けられますが、まだまだ過剰な接客サービスは、日本社会のあちこちに根を下ろしているのが実状かと思います。

またBtoCの分野に限らず、たとえばBtoBや、あるいは組織内の運営においても、余計な手間や過剰な装飾、形式的な挨拶や儀礼的サービスが横行し、効率的なオペレーションや合理化が犠牲になっている場面は多々あります。

たとえば会議の資料を事前にデータで各出席者に送信しているにもかかわらず、会議当日の場でも資料を人数分プリントアウトして配布する、なんていう類の、「おもてなし業務」が常態化している企業や役所組織は、まだまだ珍しくないのではないかと思います。

こういったところが、日本の労働生産性の低さの要因の一つになっているのではないか、と、思わずにはいられません。

次に「おもてなし」文化の二つ目の弊害は、「無報酬労働時間の放任」です。

なぜだかわかりませんが、日本語で『サービス』というと、語感としては、無料で提供される商品や役務、と捉えられがちなわけで、その一例として、「サービス残業」なんて言葉があったりするわけですが、「おもてなし」を期待するするということは即ち、無償のサービスを要求するということとほぼ同義となるため、おもてなしを提供する側としては、無償の労働を暗に強いられることを意味します。

やはり原則として、プロとしての働きには、必ず正当な対価が支払われるべきで、「ただほど高いものはない」というのが、物事の健全な在り様であるべきだと思うわけですが、サービス=無料、という謎の日本語感覚と相まって、「おもてなし」の横行は、無報酬労働時間の放任、つまり、労働環境の悪化をもたらす面があるといえます。

最後に3つ目の「おもてなし」文化の弊害は、カスハラの増長です。

過剰な「おもてなし」は、顧客側に「無償で完璧なサービスを受けられて当たり前」という思い上がった意識を植え付けてしまい、いわゆるカスタマー・ハラスメントやモンスタークレーマーを生むわりと深刻な原因になっているのではないかと思われます。

以上にあげた3つ以外にも、「おもてなし」的サービスは経済的余力がなければできないので、大都市圏と地方部との間でサービスの地域格差を広げる懸念がある、とか、「おもてなし」は一方向的な献身の形になって現れるが故に、上下関係が固定化されフラットな関係性の形成を阻害する、などといった問題点の指摘もされています。

過去の経緯として、日本人の経済活動分野において、「おもてなし」精神が持ち出されたのは、遡ること1964年の第1回目の東京オリンピック招致運動のときだったようです。

日本を訪れる外国人に対して、おもてなしの精神を発揮し、「安全で礼儀正しい印象を与えよう」というキャンペーンが国を上げて打ち出されたようで、例えば具体的にどんなことをしたかというと、すべてのタクシーに自動ドアを導入したことだったようです。

それから半世紀以上にわたって、日本という極東の島国においてはなぜか、タクシーのドアは自動で開閉することが当たり前のことになり、日本人が海外に行って恥をかく経験をする場面も少なくないわけですが、今現在、全世界の中で、タクシーのドアが自動で開閉するのは、唯一日本だけだそうですし、車両やメンテのコストを考えると、ドアの開け閉めは自分でやることが常識化している他の国々において、これから自動ドアの採用を検討している国は皆無のようです。

そして2021年開催の東京オリンピックの招致運動の際も、訪日外国人の好感度をアップすべく、「おもてなし」精神の発揮が全面に打ち出されたわけですが、招致運動をしていた2012年時点での来日外国人数は年間8百万人で、当時としては「おもてなし」パワーを駆使して、これを10百万人まで増やそう、と息まいていたわけですが、現在の訪日外国人数は、年間37百万人にのぼっており、おもてなし対象人数が当初の目標の3倍以上にふくらんでいる、というおそろしい状況に今直面しているといえます。

颯爽と展開した「おもてなし」作戦も、状況の変化に応じて、規模を縮小したり路線を変更することも考えなければいけないわけですが、タクシーの自動ドアが、オリンピックに関係なく長期に亘り根付いたように、いったん導入された物事は、後になってなかなか変えづらくなったりします。

「経路依存性」という言葉があります。

一度採用された制度や技術などが、たとえ非効率になったり陳腐化しても、過去の判断の影響力が大きいため変えることができず、時代遅れの遺物がいつまでも温存される、といった現象のことをいいます。

この「経路依存性」の有名な例としては、キーボードの配列、があります。

現在一般的に使われているPCのキーボードの文字の並びは、「QWERTY(クワーティ)配列」と呼ばれるものですが、これは19世紀に考案されたもので、当時はタイプライターでがっちゃんがっちゃんと、インクのついたキーを物理的に紙に打ち付けていたので、タイピングが一定速度を超えると、キー同士が干渉し合ってジャムを起こすため、よく使われるキーの組み合わせをわざと遠ざけて配置して、機械詰まりを防ぐ試みがなされました。

つまりQWERTY配列のキーボードは、人間工学に基づいて心地よい操作性をもたらすための配置ではなく、ポンコツ機械の故障発生を少なくする目的で、わざと速くタイプできないように人間側に制約を課す形で組まれた「イライラ配列」なのですが、経路依存性の呪縛によって、悲しいことに21世紀の今になってもなお我々は、最新のMacBook Airにおいてすら、19世紀のタイプライター本位の配列にしばられているわけです。

日本人という民族は、とりわけこの経路依存性が高いといわれており、いったん決められた物事に対し、後になって変更を加えようとした場合のハードルが、殊更高い傾向にある、と指摘されています。

その理由はいろいろあるようですが、いずれにしろ、何か物事の修正を図ろうとする場合には、経路依存性高めのソサイエティに生きることを覚悟した上で、かなり強めの圧をかけて変革を図ることが、求められる場面が少なからずあります。

「おもてなし」の精神を、経済活動全般に広く浸透させたことは、もともとは良かれと思って始めたことでしょうけれども、今はあえて、本来尊ぶべき「おもてなし」精神を、日本全土に暗雲のごとく覆いかぶさる「呪い」と呼ぶことで、経路依存性を乗り超え、文化的再設計を通じた社会運営の最適化はかるべき時にあるのではあるまいかと思う次第です。

ちなみに、具体的に見直した方が個人的に良いと考える過剰サービスは、ライドシェア導入促進の観点からも、タクシーの自動ドアは要らないと思いますし、またコンビニの24時間営業も、深夜でも客足の絶えないほんの一部の地域を除けば、基本的になくてもいいのではないかと思います。欲しいものがあっても翌朝まで我慢することを強いられたらかといって、それが人間の生活の営みを大きく阻害するとは到底思えないからです。

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